「King of the road」とも言われるフィリピンを代表する乗り物、ジプニー。タクシーよりも数倍も安価なこの乗合バス・ジプニー(Jeepney)は、フィリピン国民の足として多くの人に利用されています。煙を撒き散らしながら忙しそうに走り回る個性豊かでカラフルなジプニーは、フィリピンの象徴の一つです。
今回はそんなジプニーの歴史について見ていきたいと思います。
ジプニーとは?
ジプニーは都市部から田舎までフィリピン各地で多くの人に利用されている小さな乗合バスのようなもので、フィリピン国民には欠かせない交通手段の一つです。
ジプニーの魅力はなんといっても価格の安さで、たった8~12ペソ(約17~25円)で市内あらゆる場所へと移動できます。フィリピンのタクシーも日本と比べたら破格の安さで、初乗りだと40~80ペソ(約85円~170円)程度ですが、ジプニーの安さと比べると到底敵いません。首都マニラには電車が通っていますが、第2の都市であるセブや他の地域では電車はなく、バスも遠方専用で限られた本数しかありません。そのため、市内ではほとんどの人がこのジプニーを使っての移動か、限られた富裕層のみが自家用車やタクシーなどを使います。
乗り降りする場所は自由。コインで天井を叩く?
ジプニーはコインで天井を叩くか運転手に合図をすると、どこでも降りたいところで止まって降ろしてくれます。そうはいってもジプニーはただ闇雲に走りたい場所を走っているわけではなく、それぞれのジプニーによってルートが決められています。カラフルな車体をよく見ると「行き先」と「ルート番号」が書かれており、多くのジプニーが1日中そのルートをぐるぐると回っているため、乗客はそのルート上で待ち構えて自分の行きたい場所のルート番号が書かれたジプニーに乗ることで、目的地にたどり着くことができます。正確な時刻表などは特にありませんが、Google mapで行き先を調べるとジプニーがあと何分でどの場所を通過するのか教えてくれます。多くのジプニーが走っているので人気のルートであれば、数分単位で見つけることができます。
また、運賃は乗客同士でバケツリレーのようにお金を渡し合ってドライバーまで届けます。ドライバーは多くの車がひしめき合う道路を運転をしながら、巧みにお金を受け取り計算して、お釣りがある時もちゃんとその人の元へ間違いなく回してくれます。乗車するタイミングで特に人数がカウントされてる様子もなく、どのタイミングでお金を払っても大丈夫なのですが、無賃乗車する人は不思議とあまりいないようです。みんなで協力しあってドライバーにお金を届けたり声を掛け合っている姿から、フィリピン人の律儀さや親切さを垣間見ることができます。
定員は大体15~25人で、ピーク時にはどのジプニーも人でいっぱいとなり、中に入れなかった男性が後ろの外側の入り口付近につかまっている姿をよく目にします。ジプニー運転手はお構いなしに速度を上げて走っているため、万が一手を滑らして落ちてしまったら、なんて見てるこちら側はひやひやしてたまりませんが、地元民は見事に次々と乗り降りしています。地元民でもさすがに危険なため、男性しか外側に掴まっていないです。慣れていない観光客はくれぐれも真似しないようにしましょう。
The Urban Roamerより引用
ジプニーの歴史。ジプニーの名前の由来は?
代表的なフィリピン料理シシグが、アメリカ空軍基地で食料として使われた豚の残分を使って作られたように、ジプニーもアメリカの影響を受けて第二次世界大戦後に誕生した乗り物です。戦時中にフィリピンの街は破壊され安定したインフラは失われ、戦後は都市部でも田舎でも交通システムがほとんど機能していませんでした。当時のフィリピンの主要な交通手段であったケーブルカーや路面電車も大きなダメージを受け、多くの交通手段が失われたため、フィリピン国民は困り果てていました。
そんな最中、戦後にアメリカ軍が数百と残していったジープに注目をし、新たな交通手段である乗合バスジプニーが誕生しました。ジープをベースとして、多くの人が乗れるよう後部にシートを取り付けたり、天井をつけたりと改善を重ね、全ての国民が気軽に乗れる乗合バスジプニーが完成しました。ケーブルカーよりも多くの人を安価で運ぶことができるこのジプニーは1950年初めにマニラで本格的に運用が開始され、その後瞬く間にフィリピン全土に広がりました。
ちなみに、このジプニーという名前は2つの単語の組み合わせて生まれました。
「Jeep」+「Jitney」
ジプニーを普及させた人物。小学校教育しか受けてない成功者
Leonardo Salvador Sarao Sr.はジプニーを制作、販売する会社であるSeranno motorsの創業者です。ジプニーが開発された初期の段階に、ジプニーはこれからフィリピンの主要な交通手段になっていくだろうと目をつけてビジネスを始め、ジプニーをフィリピン全土に普及した人物です。
まずLeonard氏が取り組んだこととして、普通のジープの2倍以上の乗客を乗せられるよう後部スペースを広げたと同時に、向かい合うシートを置き無駄なスペースがないよう工夫しました。また、乗客が乗り降りしやすいよう後部に階段をつけたり、屋根部分には荷物を置けるようにしたりと、効率的に人や物を運べるように改善しました。
彼は、優れた功績を収めた人に送られるOutstanding Filipino Award (TOFIL) という賞を1997年に受賞するほどの成功を収めましたが、このSerano Motorsは元々700ペソ(約1500円)を人から借りてスタートした会社で、Leonardo自身貧困のために小学校教育までしか受けていませんでした。しかし、小さなチャンスを見極め逃さなかったため、億規模の会社にまで成長し、人々に希望を与えました。
Shirin Bhandariより引用
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はフィリピン国民の足とも呼ばれる、フィリピンを語る上では欠かせないジプニーの歴史について紐解いてみました。
ジプニーは、観光客というより地元民が主に使っている交通手段です。日本人も含めて観光客は乗り方がわからなかったり、安全面で不安だからという理由でジプニーに乗ることなく、結局タクシーで移動する人がほとんどだと思います。
しかし、フィリピンのカルチャーを知りたい人や地元の人と触れ合いたい人には是非一度ジプニーに乗ってフィリピンを存分に感じてほしいです。もちろんスリなどの対策のため、洋服のポケットやカバンの外ポケットには大事なものを入れない、など最低限気を付けることは大前提ですが、運転手にお金をバケツリレーで渡すときや、暑い中みんなでぎゅうぎゅうに座って激しく揺られながらフィリピンの空気を肌で感じる、なんて経験は間違いなくフィリピンでしかできない体験です。
是非一度皆さんも勇気を出してジプニーに乗ってみてください!
【参考】
・theculturetrip.com
・changing-transport.org
・peoplepill.com